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2018.07.31クラボウ

長い歴史を持つクラボウ、成長し続けられた理由とは?

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世界各地から観光客が訪れる岡山県倉敷市の倉敷美観地区。今でこそ観光名所として注目を浴びる場所となりましたが、その発展の歴史には様々なドラマがありました。

明治時代当時、倉敷の産業は少なかった


倉敷は日本でも人気の観光スポットですが、その昔、米と綿花以外に産業がなかったことをご存知でしょうか。疫病の流行や凶作と村に活気がなかった明治時代、発展のためと紡績工場を立ち上げようとした青年3人が村の有力者たちに理解を呼びかけました。多くの人たちの協力を得て、初代社長である大原孝四郎の手によって、明治21年(1888年)クラボウの前身となる有限責任倉敷紡績所が設立されました。

当時、日本の精紡機はミュール精紡機と呼ばれる旧式設備が主体となっていましたが、クラボウは当時最新のリング精紡機を採用、わずか数年で良質な糸を生産できるようになりました。その後も中国へ「三馬」というブランド名で綿糸の輸出を行うことにより事業を拡大していったのです。

 

労働環境の大改革、その背景にあった理由とは?


明治39年(1906年)、2代目社長として大原孫三郎が就任。就任後、従業員の労働環境の改革を行います。当時の紡績工場は、過酷な重労働や休憩もまともに取れない環境の中で働いていた従業員が多く、結核などの疾病の温床となりやすい大部屋型の寄宿舎が問題となっていました。そこで、クラボウでは、1000人が暮らしていた大部屋型の寄宿舎を廃止し、家族的分散式寄宿舎を採用。食堂、診療所、浴場などを完備することによって従業員の衛生面も向上させました。また従業員の多くが小学校の教育を受けていなかったため、工場内に教育施設を設置。会社の使命として健全な生活と勉学のためのサポートに務めたのです。

「わしの眼には、十年先が見える」


先見性があった大原孫三郎のこの言葉は口癖であり、将来を見据えた経営により事業の拡大へと導くことになりました。明治末期には大阪に基盤を移し事業の多角化も行うようになるなど、とても大胆な行動に時には重役や株主が猛反対することもありました。
のちに「仕事を始めるときには、10人のうち2、3人が賛成するときに始めなければいけない。1人でも賛成がないというのでは早すぎるが、10人のうち5人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ。7、8人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」と語っているように、自分の理想を次々と実現させていきます。未来の社会課題を早期に解決するために何をすべきか、時代の先を見据えるDNAは現在も脈々とクラボウに受け継がれています。

大原孫三郎が倉敷の地に遺したもの

大原孫三郎が立ち上げた様々な施設として『大原美術館』をはじめ、岡山県の特産品である桃やブドウを根付かせることとなる『資源植物科学研究所』や、西日本最大級の病床数を持つ『倉敷中央病院』など現在でも名を知る施設がいくつも残っています。また、当時の紡績工場は改装・改築を行い『倉敷アイビースクエア』として親しまれる観光・宿泊の名所となりました。クラボウのDNAは、今も脈々と創業の地倉敷に受け継がれています。